■ オンブバッタ
9月下旬(1999年)のことです。台風が近づくとのことで、外に出している小さな寄せ植えを室内に移動させました。すると、ピョコンと、一匹のオンブバッタが寄せ植えから飛び出しました。
本棚に張り付いた、その小さなオンブバッタをよく見ると、普通のオンブバッタとは色が少し異なります。全体的に黄色っぽい黄緑色で、目は黄色。明らかに違和感があります。意表をつかれた登場に少々とまどいながら、しげしげと見つめました。そして我に返ったとき、ある記憶が甦りました。
8月頃、寄せ植えの手入れをしていたとき、アイビーの葉陰にバッタが潜んでいるのを見つけたことがありました。そのときは観察することもなく、こんなところに食べ物はないぞ、と同情しながら、そっとしておいたのです。そして今、目の前にオンブバッタがいる。もしかして、同じオンブバッタ・・・?
邪魔をして悪かったと思いました。彼を元の世界に戻してやろうと、そっと手を伸ばしました。しかし彼は、それを拒否するかのごとく、ピョンと元気良く床へ飛び降りました。私は、今の行為が愚かだったことに気付き、そっとしてやることにしました。
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台風の影響がなくなった後日、寄せ植えを外に出してやることにしました。部屋の外は灰色のコンクリート・ジャングル。視界に入る緑は、遠くアスファルトの道路に隔てられ、ずっしりとした重い空気に包まれています。そっと上から彼の世界を覗いてみました。しかし、彼がいません。そのとき突然、身震いに似た情動に襲われました。
あのオンブバッタは、この寄せ植えの中で生まれ育ったとは考えられまいか・・・そして、一度も外界へと踏み出すことなく、彼の世界は、この小さな寄せ植えが全てだった・・・。彼の体色がこの疑問の答えをやるせないものにします。なぜか私は、とんでもないことをした、彼の人生を狂わしてしまったのではないかという、罪悪感と絶望感にとらわれました。なぜあの時、彼を元の世界に戻さなかったのか、なぜ、もっともっと広大な、本当の世界に連れていかなかったのか。息苦しい後悔が押し寄せました。仲間と出会うこともなく、恋をすることもなく、どんなに寂しい世界だったろうか・・・。彼を探し回りました。部屋中隅々探し回りました。本棚の裏、カーテンの裏、シューズボックスの下・・・。
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夢のような、彼との小さな出会いは、彩りを失った小さな寄せ植えとともに、今日も小さく風にゆれています。
(Nov. 1, 1999)